杏 林 製 薬 ⑩ 編

kyorinhen

岩崎良美の『タッチ』がヒットした1985年。
僕は、埼玉県大宮市日進町(当時の住所名)のアパートで結婚生活をスタートさせました。ちょうどこの年に埼京線が開通し、工場の最寄駅である北赤羽駅から日進駅まで乗り換え無しで通勤できるようなったのである。通勤中は、プロレス新聞なんぞを読みながらサラリーマン気分を満喫していました。
やがて長男が生まれ、子育てと仕事に追われて漫画のことなどまったく考えなくなっていました。休日には家族で大宮駅周辺に出かけて買い物をしたり、氷川神社へ散歩に行ったりと家族サービスに努めたのである?(噓つけー、パチンコばっかりやっていたくせに)

そして1987年東京工場はその使命を終え、ついに閉鎖が決定しました。それぞれ次の異動先が決まり、僕は野木工場製造2課との事で注射薬から経口薬に移ったのである。それに伴って住居も工場近くの社宅に移る事にし、日進町の生活は僅か2年で終わってしまいました。

野木工場に異動した僕は、経口薬は初めてなので一通り実習した後、カプセル剤の充填する職場に配属されたのです。が、すぐ新薬を製造する職場に異動になり『東京工場といい、製造2課といい立ち上げの仕事が続くなぁ』と感じていました。新薬は、会社初の徐放性製剤で、かなり難しい製造方法でした。胃で溶出する顆粒と腸で溶出する顆粒を決められた比率で混合し、カプセルに充填するのである。そんな日々を過ごしていた1989年2月9日。ショックなニュースが流れてきました。

手 塚 治 虫  逝 去

『アー、子供の頃から憧れていた手塚先生が亡くなってしまった。これで僕の漫画に関する全てが終わった・・』としみじみ思ったものです。

その年に長女が生まれ、公私共に順風満帆だったのですが一つの悩みを抱えていました。両親が高齢になってきたので、このまま杏林製薬にいて両親をよぶか、会津に帰って両親と一緒に暮らすか二者択一を迫られていたのです。散々迷ったあげく、ついに会津に帰ることを決心しました。

1992年2月 浜田省吾の『悲しみは雪のように』が流れる中、35歳の僕は杏林製薬を退職し、女房と子供二人を連れて会津に帰ったのである。
※杏林製薬編がだいぶ長くなってしまいましたが、青春時代の大半を過ごしたところなので、思い入れが強くて・・・ まだまだ面白い話がたくさんあるのですが、また別の機会に。

次回から会津編となりますが、ついに1コマ漫画と出合い、断筆していた僕は復活するのである。
お楽しみに!!

【めもあある漫画館】

〔 お ジ ョ ー ズ ! 〕

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