東京工場は、北区浮間にあり最寄駅が赤羽駅です。(埼京線は、まだ有りません)
赤羽駅周辺には、せんべろの聖地「一番街」や「OK横丁」があり吞兵衛にはたまりませんね。
工場へ行くには、駅前で浮間循環のバスに乗り約20分で着くのですが、工場は荒川の土手沿いにあり、初見の感想は『なんか、小さくて汚い工場だな』でした。
その工場から徒歩10分の距離に寮がありました。建物は古い木造で、部屋は北窓で日中でも薄暗いのである。『これからここで暮らすのか・・・』と気持ちまで暗くなってしまいました。
1978年、この年に東京工場へ転勤したのは野木工場から3名、岡谷工場から1名の計4名で、歓迎会を開いてもらいました。その際、本社から専務が来席し挨拶をしたのですが、開口一番「この中に、だいぶ駄々をこねた人がいたようだね」と言われたのである。その瞬間『ウワー、僕のことだ』と察知し、下を向いたまま専務の顔が見れませんでした。たしかに東京工場に来る前は『何か、もうどうでもいいや』と自暴自棄になっていたのである。今、思い出しても恥ずかしいー
後で分かったのですが、某注射薬の製造方法を、凍結乾燥製剤から粉末製剤に変更するための試作及び生産ラインを確立する業務を東京工場で行うことになり、そのための転勤でした。
製造部門上司の安部係長、大場職長。そして3歳先輩の福井さんには大変気遣ってもらい、気持ちも新たに仕事に取り組むようになっていました。そんなある日、突然、ポスターの原案を頼まれたのです。社外用か社内用か分かりませんでしたが、イラストが描けるという情報が本社まで届いていたらしいのである。断筆していた僕は、あまり気が乗らず大場職長に「どうせ原案だから適当でいいですよね」と言うと「やるからには、本気でやりなさい」と励まされ、なんとか完成したのでした。この話は続きがあって、僕の原案を広告会社に持って行ったところ『素人っぽくて面白いから、このままポスターにしましょう』との事で、なんとそのまま印刷されたのである。その話を聞いて僕は、驚くやら喜ぶやら大混乱です。『そんなことになるんだったら、もっとちゃんと描けば良かった』と後悔しました。その時のポスターを今でも大事に保管してあります。なんせ初めて自分の描いたイラストが印刷されたのですから・・・。ちなみに原稿料は出ませんでした。アッ、記念品はもらったかな(笑)

寮にも慣れてきた僕は、赤羽で同僚と酒を飲んだりパチンコをしたりと、東京の生活を満喫していました。特にパチンコはフィーバー機が出てきて夢中になったものです。相変わらず馬鹿ですねー。3年後、2名の新入社員が入ってきました。そのなかで品質管理に入った岡谷市出身の角くんが、しょっちゅう僕の部屋に来て映画、音楽の話をするようになり、漫画とかけ離れた青春時代は過ぎていくのでした。その後、寮長になり28歳で退寮するまで寮長に君臨したのである?
退寮の理由は・・・結婚です。
【めもあある漫画館】
〔 風 の 街 の 遊 園 地 〕



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